猫叉(STORY)
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「今日は特別な日なんぇ、お客さん」女は首を巡らして、壁際に置いてある衝立を見やった。衝立には古びた男物の着物が掛けられてあった。
「あちしはね、今日のこの日を長いあいだ、ずぅっと待ち続けていたんだ」女はすぃと視線を逸らし、遠くを見つめながら独り言のようにつぶやいた。
「...長かったよ。どれくらい待ち続けていたのか、自分でも忘れてしまったくらいさ。あれは亨保の頃だから、もう300年も前かね。...聞きたいかぃ?」
 私は、まるで魔法にかかったかのように、女の瞳から目が逸らせられないでいた。それは燃え上がるような朱色で、瞳孔が光の加減で目まぐるしく閉じたり、開いたりしている。暗闇で輝く反射鏡のように、朱色の瞳は、瞬きをした瞬間に光を跳ね返してキラリと光った。
*
「あちしは、吉原の猫だったのさ。子猫の時に捨てられて泣いているところを、出入りの大工だったあの人に拾われた。あちしはあの人を好いていたよ。あの人もあちしをそれは大事にしてくれた。あちし達は夜も昼も、いつも一緒だった。

 ある日のこと、あの人は出入りの吉原の遊廓で、太夫の花魁道中に出会ったのさ。
 太夫といえば、花魁一番の上玉さね。華奢な腰に見事な帯を前に締め、シャラシャラと鳴る沢山のかんざしを頭に差す。道中ともなれば大勢の取り巻きを引き連れて、茶屋への通りをしゃなりしゃなりと歩いていくのさ。彼女は吸い付きたくなるような白い首をしていて、それはそれは、この世のものとは思えない程美しかったらしいよ。
 あの人は一目で太夫に惚れてしまった。花魁の頂点である太夫に、あの人といえばしがない一介の大工の身。身分違いの恋、かなうはずもなかった。
 あの人はすっかり変わっちまったよ。寝ても覚めても太夫の夢ばかり、まるで夢遊病者のようだった。仕事にもろくに熱が入らず、出入り先からも次々にお暇を出されてしまったくらいさ。自分の事はもちろん、あちしにも構わなくなり、家の中はすっかり寂れてしまった。
 何ヶ月かたったかねぇ、ある日一大決心をして、親戚から借金をし、家具一切を売り払って全ての有り金を掻き集めた。それをもって吉原へ行ったのさ。一生に一度の決心だったんだろうねぇ、でも太夫は相手にしなかった。門前払い。見ず知らずの大工ごときに会う道理はないってね。太夫の客ともなれば常連ばかりだし、会いたくないものには会わない、それが吉原の花形、太夫なのさ。そんなもんさね。
 しかしそこであの人は逆上して、人傷沙汰を起こしてしまった。そこらにいた花魁達や丁稚達を所構わず切り殺したんだね。太夫の居る二階へ駆け上がろうとして、大騒ぎ。たちまち奉行所の連中が駆け付け、そこで御用となった。お裁きの結果、死罪打ち首だったよ。

 四条河原であの人は処刑された。親家族はいなかったし、親戚も誰もやってこなかった。一族で死罪者が出たなど近所に知れたら、それこそ鼻つまみものだからね。最後を見取ったのはあちしだけだった。
 刑場にもぐりこんだあちしに向かって、あの人はいまわの際に言ったよ、今度生まれ変わったらお前と一緒になろうって。あちしは泣いたよ、泣いて、息絶えたあの人の肝を引きずり出して食べた。そうしなくちゃならなかったんだ。
 そうして今、ここにあちしが居るってわけさ」

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